鳥を追いかけて、火を起こして、分け合った
タンザニアで、ハザベ族と一緒に狩りに行ったときのことです。
鳥を探して、何度も逃げられて、また探して。ようやく一人が仕留めて、その場で火を起こして焼いて、みんなで分け合って食べました。正直、ちょっと怖かった。でも、あんなに濃い「食べる」は、それまで経験したことがなかったんです。
スーパーに行けばパックで買える。弁当屋でも惣菜でも買える。日本で僕が何千回と繰り返してきた「食べる」という行為と、まったく違う場所から食べていました。
あのとき出てきた「いただきます」と「ごちそうさま」は、教わったから言うものでも、言えと言われて言うものでもなかった。命をいただきました、という言葉が、内側から勝手に湧き上がってくる感じでした。
探して、逃げられて、仕留めて、火を起こして、分け合う。そのプロセス全部が入っているから、感謝が本物になる。
マサイの人たちとチャイを一杯飲む、それだけの時間もそうでした。バケツに汲んだ水で浴びるシャワーもそう。効率で測ればゼロ点みたいな時間なのに、めちゃくちゃ豊かだったんです。
アフリカでの生活は、その感覚を僕に叩き込んだ——はずでした。
なのに僕は、コーヒーが落ちる数分を惜しんでいた
日本に戻って、しばらく経って。気づいたら僕は、あの感覚をきれいに忘れていました。
コーヒーを淹れる。お湯を注いで、落ちきるまでの数分間。いつもならスマホを見ていたはずです。その間に無意識に動画でも見ようかな、と。
でもその日はなぜか、じっと見ていました。湯気が立って、部屋に香りが広がってくる。ああ、美味しそうだな、早く飲みたいな、という気持ちが少しずつ醸造されていく。
飲む前から、もう始まっている。
タンザニアの焚き火の前で、あれだけ強烈に思い知ったはずのことでした。それを、日常に戻った瞬間に手放していた。効率主義の引力は、思っていたよりずっと強かったということ。今日そんなことに気づいた。
「効率が正義」に頭が支配されていた(やべえ汗)
そこでハッとしました。僕はずっと、効率的であることが正義だという常識に、かなり深いところまで支配されていたなと。意外と支配されにくい人間だと思い込んでいたが、甘かった。
早ければ早いほど価値がある。コスパ、タイパ。人生を大事にしている人は時間を大事にしている——これ自体は本当にその通りだと思います。僕も仕事のタスクをこなすときは、どうやったら時短できるかに意識が行くし、そこはやはり大事です(決して上手ではない)。
問題は、そっちばかりになってしまっていたことでした。
効率化して、ギュッと詰めて、時間をつくる。じゃあ、その空いた時間で何をしていたか。また次の効率化を考えていたんじゃないか。
短縮した分の時間を、コーヒーが落ちるのを眺める時間に使う。新幹線を使わずに少しだけ歩いて、その町の景色や、人の会話や、夕方に漂ってくる料理の匂いを味わう。家族と食卓を囲む、子どもと遊ぶ。リフレッシュや自分の趣味に使うのだっていい。
そこに使わないなら、何のために早くしていたんだろう、と思ったんです。
待つことが贅沢だった記憶
考えてみれば、待つ時間が豊かだった記憶は、いくらでもあります。
子どもの頃、家が建っていくのを、毎日少しずつ眺めていました。基礎ができて、柱が立って、屋根が乗って。完成した日よりも、あの毎日のほうを鮮明に覚えている。
一目ぼれして注文した車の納車を待っていたあの感じも同じです。手に入れた瞬間だけが価値だったわけじゃない。待っている時間そのものが、もう体験の一部でした。
非効率に見える時間が、実はいちばん豊かだったりする。僕はもう一度、そういう何気ない日常の時間を、丁寧に見つめなおそうと思います。
削ってはいけないものがある
もしかしたら僕たちは、そのプロセスを全部すっ飛ばしてきたのかもしれません。
とにかく効率よく、生産性を上げろ、生産性を上げろ。一人でどれだけこなしたか、どれだけ短縮したかを競う。その競争の中で、人間らしさとか、手触りみたいなものが、少しずつ削れていったんじゃないか。
ハザベ族の狩りに「いただきます」が宿っていたのは、プロセスが丸ごと残っていたからです。逆に言えば、プロセスを削るというのは、そこに宿るはずだったものごと削ることでもある。
僕はどこかでそこに抵抗していたんだと思います。まあ、自分が不器用だっただけかもしれませんが。
効率を否定したいわけじゃありません。仕事では今まで以上に速く動きます(希望)。ただ、その速さでつくった時間を、また速さのために使うのはもうやめようと思っています。
コーヒーが落ちるのを待つ数分間くらいは、贅沢に使いたい🌸
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